ミステリーとしての読みどころ
幕が上がり、客席が暗く沈んだブロードウェイの劇場。舞台の上では新作劇が佳境を迎えているのに、満席の客席のただ中で、ひとりの男が静かに息絶えていた——。
エラリー・クイーンの長編第一作『ローマ帽子の謎』は、そんな一場面から幕を開けます。〈国名シリーズ〉の記念すべき出発点であり、論理をどこまでも誠実に開いてみせる本格ミステリの作法が、ここから始まりました。
著者について
「エラリー・クイーン」という署名は、ひとりの作家の名前ではありません。フレデリック・ダネイ(1905-82)とマンフレッド・B・リー(1905-71)、いとこ同士のふたりが分かち合った合作ペンネーム。
彼らは1929年、出版社が主催したコンテストに一編の長編を投じました。それが本作『ローマ帽子の謎』であり、ここから始まる〈国名シリーズ〉によって、ふたりはミステリ史に確かな足場を築いていきます。
のちに「アメリカの推理小説そのもの」とまで評された、巨匠中の巨匠。片割れのダネイは、雑誌〈エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン〉を通じて数多くの書き手を世に送り出しました。
すべては、この一作の応募原稿から動き出したのです。
物語の入り口
舞台はニューヨーク、ブロードウェイのローマ劇場。かかっているのは、評判を呼んでいる新作劇〈ピストル騒動〉です。
客席は満員。誰もが舞台に釘付けになっているそのさなか、ひとりの観客が異変に見舞われます。
弁護士のフィールド氏。何者かの手で毒を盛られ、劇の熱気のただ中で息絶えるのです。
周囲を大勢の観客に囲まれた、逃げ場のない満員の客席。その真ん中で、誰にも気づかれぬまま一人の男が殺されている——それだけでも十分に不可解な状況です。
しかも、奇妙なことはもうひとつありました。現場から、被害者がかぶっていたはずのシルクハットが消えていたのです。
どこを探しても見当たらない、一個の帽子。人のひしめく閉じた空間で起きた死と、そこから失われた帽子。
事件は、その不可解な取り合わせから立ち上がります。
捜査に乗り出すのは、ニューヨーク市警きっての腕きき、リチャード・クイーン警視。そしてその傍らには、息子で推理小説作家のエラリーがいます。
父は現場で捜査にあたる老練な実務家。長年の勤めがしみついた勘で、事件の輪郭を一つずつ確かめていきます。
息子は書物と論理を杖に、集まった事実を静かに組み立てていく。年季の入った警視と、理屈をこよなく愛する若い息子。
畑ちがいのふたりがひとつの卓を囲むように事件と向き合う構図が、物語を運んでいきます。
そして本作の白眉が、解決の直前に差し挟まれた一枚の呼びかけです。物語がすべての手がかりを出しきった地点で、作者はいったん筆をとめ、読者に向かってまっすぐ挑みます。
ここまでの材料で真相にたどり着けるか、と。この「読者への挑戦状」こそ、のちの〈国名シリーズ〉を貫く旗印であり、その最初の一本が、ほかならぬこのデビュー作に立てられているのです。
読みどころ
読みどころは、推理の手続きを一切ごまかさない誠実さにあります。 名探偵が最後に披露する結論は、それまでに読者の前へ差し出された事実だけを土台に組み上げられます。
都合のいい情報が土壇場で伏せられていたり、隠し球のように飛び出したりすることはありません。読者は探偵とまったく同じ材料を手にして、推理の卓につくことができる。
「読者への挑戦状」は、その公明正大さを作品の側から保証する宣言でもあります。手がかりはすべて示した、あとはあなたの番だ——そう言い切れる自負が、この作法を支えています。
後年の国名シリーズと比べれば、本作の論理はまだ穏やかで、飛躍の鮮やかさより手続きの丁寧さが前に出ます。けれどもそれは弱点ではなく、シリーズの出発点にふさわしい美点。
フェアプレイという一本の芯がどのように据えられたのか——その原型をもっとも素直な形で見せてくれるのが、この第一作にほかなりません。
名探偵の推理にじっくり身をゆだね、示された手がかりから自分でも答えを探ってみたい——そんな読み方を好む人には、安心して薦められる一冊です。逆に、息もつかせぬ展開やサスペンスの疾走感を第一に求めるなら、論理を一段ずつ積み上げていく本作の歩みは、いくらか悠長に映るかもしれません。
ただ、その落ち着いた足取りこそが黄金期本格の醍醐味であり、腰を据えて謎と向き合う時間そのものを楽しめるかどうかが、本作との相性を決めます。
手に取るなら
いま手に取るなら、東京創元社・創元推理文庫の一冊です。かつては井上勇訳(1960年)で長く親しまれてきましたが、現在は中村有希による新訳で読むことができます。
中村有希はウォーターズ『半身』『荊の城』などで知られる英米文学翻訳家。巻末には有栖川有栖による解説が添えられています。
〈国名シリーズ〉のすべてが動き出した最初の一冊として、そして本格ミステリのフェアプレイがどんな姿で生まれたのかを確かめる一冊として、クイーンを初めて読む人にも、ここから読み始めるのにうってつけの作品です。