ミステリーとしての読みどころ
黄色い僧衣をまとった何者かが、施錠された書斎で男を撃ち、そして煙のように消え失せる。『九人の偽聖者の密室』は、そんな不可能状況を物語の中心に据えた、黄金期アメリカの密室ミステリの古典です。
原題は Nine Times Nine。呪文のように繰り返される数字が、事件の幕開けを告げます。
著者について
作者はH・H・ホームズ。もっともこれは筆名で、その正体は評論家・編集者として鳴らしたアンソニー・バウチャーです。
批評の目で数多のミステリを読み込んできた書き手が、自ら密室に挑んだ一作——という背景が、本書には色濃く刻まれています。というのも本作は、密室ものの巨匠ジョン・ディクスン・カーに捧げられた作品であり、作中にはカーの名高い《密室講義》をめぐる議論までもが正面から呼び込まれているからです。
1940年の刊行以来、不可能犯罪の名作として語り継がれ、エドワード・D・ホックが主催した歴代密室ミステリ・ベストテンにも選ばれてきました。長らく入手の難しい幻の一冊でしたが、2022年、半世紀ぶりの新訳で甦っています。
物語の中心にいるのは、カルト宗教の研究者ウルフ・ハリガンです。彼がいま追っているのは、「光の子ら」と名乗る新興教団。
その主宰者は、伝説の「さまよえるユダヤ人」を騙るアハスヴェルという人物で、ウルフはこの教団の欺瞞を暴くべく、糾弾の準備を進めていました。そんな彼のもとに、ひょんなことから作家志望の青年マット・ダンカンが加わります。
二人はまず、敵の懐へ飛び込むように、「光の寺院」で開かれる教団の集会へと足を運ぶのです。
その集会の場で、不吉な種が蒔かれます。全身に黄色い僧衣をまとった教祖アハスヴェルが、信者たちとともに「ナイン・タイムズ・ナイン」の呪文を唱え、ウルフの死をはっきりと予言してみせるのです。
九かける九。その言葉の禍々しさが、読者の胸にも小さな棘のように残ります。
そして翌日。ハリガン家の庭ではクロッケーの長閑なゲームが繰り広げられ、その輪にマットもいました。
ふと彼が母屋のほうへ目をやると、ウルフのいる書斎の窓の向こうに、机に身をかがめる黄色い僧衣の人影が見えます。昨日の予言が脳裏をよぎったのでしょう、マットは慌てて邸内へ駆け込みますが、書斎の扉には鍵がかかっていて入れない。
もう一度外へ回って窓に取りついたときには——ウルフは顔面を撃たれて床に倒れ、たしかにそこにいたはずの黄衣の人物は、どこにも見当たらなかった。窓は内側から施錠されたまま。
人ひとり抜け出せるはずのない部屋から、それは跡形もなく消えていたのです。
読みどころ
本書のいちばんの趣向は、ミステリそのものを作中に招き入れてしまうところにあります。 現場に立ったのは、探偵小説嫌いのマーシャル警部補と、ミステリ好きのダンカン。
この凸凹の二人は、あろうことか犯人を追うのに、ジョン・ディクスン・カーが小説の中で開陳した《密室講義》——密室トリックを類型ごとに整理した、あの名高い講義——を教科書のように広げて検討を始めます。ところが困ったことに、目の前の事件はそのどの分類にも当て嵌まらない。
名探偵ならぬ名理論をもってしても捕まえられない、規格外の不可能状況。この「ミステリを読んで育った登場人物が、ミステリの定石で挑み、そして弾き返される」という構図こそ、批評家バウチャーならではの遊び心であり、本書をただの密室ものから一段引き上げている仕掛けです。
そして、捜査陣が手詰まりに陥ったところへ、静かに歩み出るのが探偵役です。これがなんと、尼僧。
修道女シスター・アーシュラは、困惑する捜査陣の傍らで難事件の経緯を静かに聞き取ると、真相を求めてまず祈りを捧げます。理詰めであるべき密室ものに、そのような静謐で敬虔な佇まいの探偵を据えたこと自体が、本書の忘れがたい個性になっています。
神をも畏れぬ密室の謎に、祈る探偵が挑む——この取り合わせの妙こそ、読み終えても記憶に長く残る一点でしょう。本作は、彼女を探偵役とするシリーズの記念すべき第1作でもあります。
密室・不可能犯罪という趣向そのものを愛する読者、そして「探偵たちがどう挑み、どう跳ね返されるのか」という知的な攻防を楽しみたい読者には、これ以上ないほど誂え向きの一冊でしょう。一方で、派手なアクションや現代的なスピード感を第一に求める向きには、じっくりと謎へ分け入っていく古典の呼吸が、やや悠長に映るかもしれません。
けれど、その落ち着いた歩みこそ黄金期のミステリを読む醍醐味であり、ページを繰るほどに密室の磁力へ引き込まれていくはずです。
手に取るなら
現在手に取るなら、国書刊行会〈奇想天外の本棚〉の一冊として出た、白須清美による新訳版です。長く「幻の名作」と呼ばれてきた作品を、山口雅也の製作総指揮のもとで現代へ届けたシリーズで、坂野公一による装訂も目を惹きます。
カーに憧れ、カーに捧げられた一風変わった密室譚として、そして異色の尼僧探偵の初登場作として、黄金期アメリカ本格の懐の深さを味わわせてくれる好著です。