ミステリーとしての読みどころ
凍りついた女の遺体。北欧の海辺の小さな町で、旧知の女性が浴槽の中で氷結した姿となって発見される——『氷姫』は、その静かで残酷な一場面から立ち上がる物語です。
派手な追跡劇でも、密室の趣向でもありません。ここにあるのは、ひとつの死をきっかけに、穏やかだったはずの町の風景がゆっくりと表情を変えていく、そんな種類の緊張です。
冷たく美しい死体の像が、最初の数ページで読者の胸に焼きつき、そのまま最後まで消えずに残ります。
著者について
著者のカミラ・レックバリは、物語の舞台となるフィエルバッカに生まれたスウェーデンの作家です。本作『氷姫』は、そのレックバリのデビュー作にあたります。
自分が生まれ育った港町を丸ごと物語の器にしてしまう——その大胆さと親密さが、最初の一作からすでに息づいています。故郷の町を舞台に、作家エリカと地元刑事パトリックが事件を追うこの一冊から、のちに長く書き継がれるフィエルバッカ・シリーズが始まりました。
シリーズは累計四百万部を数えるまでに読み継がれ、北欧ミステリの新星と呼ばれた書き手の、まさに出発点がこの作品です。処女作でありながら、その後の人気シリーズの骨格がここにそろっている。
デビュー作から読みはじめられるというのは、シリーズものの愛読者にとってなかなか得がたい幸運です。
物語の入り口
物語は、両親を亡くした作家エリカが、故郷である海辺の町フィエルバッカへ帰ってくるところから動き出します。喪失の悲しみを抱えて戻ってきた懐かしい町で、彼女を待っていたのは、さらに重い報せでした。
旧知の女性が、自宅の浴槽の中で凍りついた姿の遺体となって発見されたのです。海辺の邸でひっそりと見つかった、氷に閉ざされた美しい死体。
人が暮らし、湯を張り、身体を休めるはずの一軒の家が、一夜にして異様で寒々しい光景の器へと変わってしまう。この立ち上がりの静けさと冷たさが、まず読者の背筋をとらえて離しません。
誰かが声を張り上げるわけでも、けたたましく事件が転がり出すわけでもない。ただ静かに、取り返しのつかないことが起きてしまったという感触だけが、じわりと広がっていきます。
やがてエリカは、その死をただ悼むだけではいられなくなります。かつて親しかった相手の最期に、どうしても割り切れないものを感じ取ってしまうからです。
一方、地元の警察でこの一件を担うのが、刑事パトリック。作家の目と刑事の目、性質のまるで異なる二つの視点から、それぞれが被害者の周囲を少しずつ辿りはじめます。
そして周囲をたどるほどに、のどかに見えた町の足もとから、氷の風土に封じ込められてきた古い出来事の気配が、ひんやりと滲み出してくる——物語の入り口としては、ここまでで十分でしょう。誰の、どんな過去なのか。
その驚愕の中身がどこへ向かうのかは、ページをめくる読者自身の手に委ねられています。閉じた共同体のなかで、住人たちが黙って抱えてきたものの輪郭が、少しずつ像を結んでいく。
その気配だけで、もう先が気になって仕方がなくなります。
読みどころ
読みどころは、事件そのものより、事件が照らし出す町の質感にあります。 凍てつく海辺の風景、閉じた小さな共同体に流れる空気、そこに暮らす人々の記憶。
捜査が進むにつれて、フィエルバッカという風土そのものが、まるでもう一人の登場人物のように立ち上がってきます。名探偵の一閃で霧が晴れるのではなく、故郷に戻った作家と地元の刑事が、それぞれの理由から一歩ずつ距離を詰めていく。
その歩幅にじっと寄り添う読書です。町の景色を描く筆と、人の心の陰りを描く筆が同じ濃度でそろっているところに、この書き手の器量が早くも表れています。
北欧ミステリという大きな流れの、ひとつの源流に立ち会えるという意味でも、記念すべき一冊といえるでしょう。事件を解くことが、そのまま一つの町とそこに生きる人々を見つめることに重なっていく。
その静かな二重性こそ、本作をただの謎解きに留まらせない大きな魅力です。
こんな人におすすめ
相性でいえば、めまぐるしい急展開や大仕掛けの連続を第一に求める読者には、この静かな滑り出しは、はじめのうち物足りなく映るかもしれません。本作の味わいは、寒々しい土地の空気ごと事件に沈み込んでいく感触にあります。
舞台の風土と人間の陰影をたっぷりと味わいたい読者、登場人物の背景ごと物語に浸りたい読者、そしてシリーズものを第一作からじっくり育てるように付き合いたい読者には、うってつけの入り口です。急ぎ足で消費するより、余韻を長く連れ帰りたい人に向いた一冊です。
手に取るなら
現在読めるのは集英社文庫版で、邦訳は2009年に刊行されました。原書は2003年に発表された、フィエルバッカ・シリーズの記念すべき第一作です。
この一冊で北欧の港町の空気が肌に合えば、エリカとパトリックが歩んでいくその後の物語へと、そのまま読み進めていく楽しみが待っています。氷結した町から立ちのぼるひんやりとした余韻は、本を閉じたあともしばらく消えてくれません。