犯人を死なせている、と。
処刑台広場の女
名探偵への黒い噂を追う新聞記者の目で読む、黄金期本格の現代版シリーズ第1作。
1930年、ロンドン。この街には、名探偵と呼ばれながら、その名を口にするときだけ人が声をひそめる女性がいます。
レイチェル・サヴァナク。彼女が謎を解く力を疑う者はいません。
けれど噂は、いつも同じ形をして戻ってくる——彼女は、自分が突きとめた殺人者を死に追いやっているのではないか。『処刑台広場の女』は、その黒い噂を出発点に据えた一冊です。
物語の入り口
物語を歩くのは、新聞記者のジェイコブです。彼が狙うのは、レイチェル・サヴァナクの秘密。
噂の女はいったい何者なのか、なぜ事件のたびにその影が差すのか。記者としての本能が、彼をその一点へ引き寄せていきます。
とはいえ相手は名探偵です。正面から問い詰めて口を割らせられるような人物ではありませんし、噂の輪郭に手を伸ばそうとすれば、こちらの足場のほうが先に崩れかねない。
それでもジェイコブは踏み込んでいきます。
やがて彼の前に、奇妙な事件が並びはじめます。密室で起きた不可解な自殺。
ショーの上演中に起きた焼死。どちらも、聞かされただけで座りの悪さが残る出来事です。
閉ざされた部屋の中で、なぜその死が選ばれなければならなかったのか。大勢の視線が舞台へ吸い寄せられていたはずのその時間に、なぜひとりの人間が焼けて死ぬのか。
ロンドンという都市の華やかな表側と、その足元に口を開けた暗がりとが、事件のたびに交互に顔を見せます。そして公式の惹句は、読者の胸ぐらをつかむようにこう問いかけてくるのです。
一連の事件の真犯人は、レイチェルなのか——と。
読者は、その問いを抱えたままジェイコブの肩越しに先を追うことになります。探偵に近づくほど真相へ近づいている手応えがあるのに、同じ歩幅のぶんだけ、足元が薄くなっていく。
頼るべき名探偵をこそ疑いながらページをめくるというのは、推理小説の読者にとってなかなか落ち着かない姿勢です。噂は証拠ではありませんし、噂を否定する材料もまた、簡単には手に入りません。
宙ぶらりんのまま歩かされる、この不安定さ。真実は全て"処刑台広場"に——惹句はそれだけを告げて、あとは読者に委ねます。
読みどころ
読みどころは、謎解きへの興味と、探偵その人への疑いとが、一本に撚り合わされて最後まで解けないところです。 多くの推理小説において、名探偵は読者にとっての安全地帯です。
そこに座っていれば、混乱した世界はいずれ整理され、正しい形に戻される。ところが本書では、その安全地帯そのものが最初から揺らいでいます。
手がかりを読み解く楽しみと、この人物をどこまで信じてよいのかという居心地の悪さが、同時に進行していく。事件の不可解さに引きつけられながら、その解明を託す相手の輪郭も同じだけ気になってくる、という二重の読み方を強いられます。
もうひとつ挙げるなら、古典の手触りと現代の読みやすさが両立している点です。奇妙な事件を提示し、それを謎として真正面から扱う骨格は、黄金期の探偵小説から受け継いだもの。
一方で、1930年のロンドンの暗さや、人物たちの息づかいの描き方は、現代の小説のものです。往年の名作を読み返すときのあの手応えを、現代の文章のなめらかさで味わえる。
この組み合わせは、思いのほか貴重です。謎解きの興味だけで最後まで引っぱる骨太さと、人物や街の描写に費やされる筆の細やかさとが、どちらも削られずに同居している。
古典に惹かれて何冊も遡ってみたものの、時代がかった言い回しの前で足踏みしてしまった経験のある読者にとっては、失われた楽しみを取り戻すような読書になるはずです。
こんな人におすすめ
相性で言えば、黄金期の探偵小説の空気を愛しつつ、古い文体の読みづらさには少し疲れている、という読者にはよく合います。英国の都市を舞台にした翳りのある物語が好きな向き、読み終えたあとにすっきりしない何かが残ることを、むしろ読書の醍醐味と考える向きにも薦められます。
逆に、探偵役に全幅の信頼を寄せ、安心して推理を追いかけたい読者には、この落ち着かなさが煩わしく映るかもしれません。後味の明るさを求めて開くと、漂う不穏さに戸惑うこともありそうです。
ただ、その不穏さこそが本書の設計の中心にあるものです。
作品の背景
『処刑台広場の女』の原書は2018年に刊行され、邦訳は2023年8月にハヤカワ・ミステリ文庫から出ました。二十一世紀に書かれた新作でありながら、不可解な出来事を読者の前に差し出し、その謎そのものを物語の推進力にするという黄金期本格の作法を、現代の小説の筆致で受け継いでいます。
日本でも評判を呼び、「このミステリーがすごい!」2024年版の海外編で3位に入りました。
手に取るなら
手に取るなら、加賀山卓朗訳のハヤカワ・ミステリ文庫版です。レイチェル・サヴァナクを探偵役とするシリーズを読むなら、まずここから入るのが順当な道筋になります。
黄金期の作法が現代の書き手の手でどう生き直すのかを確かめるうえでも、格好の入り口となる一冊です。
マーティン・エドワーズについて
マーティン・エドワーズは、1955年にイギリスのチェシャー州ナッツフォードで生まれた作家です。オックスフォード大学ベイリオル・カレッジで法学を学んで弁護士となり、1991年にリヴァプールの弁護士ハリー・デヴリンを主人公とする『All the Lonely People』でデビューしました。
湖水地方を舞台にしたシリーズのほか、2018年の『処刑台広場の女』からレイチェル・サヴァナクのシリーズを書いています。
黄金期ミステリの研究家としても知られ、評論『探偵小説の黄金時代』はエドガー賞評論・伝記部門などを受賞しました。大英図書館クライム・クラシックスの編者を務め、2015年からディテクション・クラブの第8代会長です。
2020年には英国推理作家協会のダイヤモンド・ダガーを受けています。
書誌情報
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