ミステリーとしての読みどころ
『クマのプーさん』の名を知らない人は、まずいないでしょう。ところが、その同じ作者が生涯にただ一冊だけ本格的な探偵小説を書き残していると聞くと、少し意外に思えるのではないでしょうか。
1922年に世へ出た『赤い館の秘密』は、英国のカントリーハウスを舞台にした端正な謎解きであり、プーの生みの親がのぞかせたもうひとつの顔でもあります。
著者について
著者のA・A・ミルンは、1882年にロンドンで生まれました。本名はアラン・アレキサンダー・ミルン。
ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに学び、英国のユーモア誌『パンチ』への投稿から出発して、やがて同誌の編集に携わるようになります。作家として独立したのちに残した代表作が、児童文学の『クマのプーさん』『プー横丁にたった家』であり、そして唯一の探偵小説である本作でした。
軽妙な会話とユーモアを得意とした書き手が、その筆づかいをそのまま謎解きへ持ち込んだ——そう考えると、この作品の親しみやすい手ざわりにも合点がいきます。児童文学の巨匠という顔の裏に、こんなに端正な本格の書き手が隠れていた。
その意外さそのものが、本作を手に取る最初の理由になってくれます。
物語の舞台となるのは、「赤い館」と呼ばれるカントリーハウスです。緑に囲まれた邸宅で、主人マーク・アブレットが穏やかな日々を送っている——本作はそんな、英国のカントリーハウスらしい静けさから幕を開けます。
その主人のもとへ、ある日、15年ぶりに兄ロバートがオーストラリアから帰ってきます。長らく消息を絶っていた肉親の帰還——それ自体が、落ち着いた邸宅の空気にかすかな緊張を持ち込む出来事です。
そしてロバートが館に姿を現した直後、一発の銃声が響きわたります。
人々が駆けつけたとき、施錠された書斎のなかで、ロバートはすでに息絶えていました。そればかりか、館の主人であるはずのマークの姿が、どこにも見あたりません。
帰ってきた兄は死に、迎えたはずの弟は消えた。事件は、その不可解な釣り合いのなかから立ち上がります。
そこへ、まったくの偶然から一人の青年が居合わせます。友人ビル・ベヴァリーを訪ねて、ちょうど赤い館に到着したアントニー・ギリンガム。
事件のにおいを嗅ぎつけた彼は、素人ながら探偵役を買って出て、ビルを相棒に据えて調べを進めていきます。ミルンはこの二人に、はっきりとホームズとワトスンの役回りを与えました。
片方が推理を組み立て、片方が疑問を投げかける。読者は、その軽快な問答に耳をそばだてながら、二人と歩調を合わせて謎の輪郭をたどっていく位置に立たされます。
陰惨さよりも、推理を交わすことそのものの楽しさが前に出る——それが、この館に流れる空気です。
読みどころ
本作の魅力は、事件の重さよりも、推理をめぐる会話の心地よさにあります。 発表当時から、この作品の評価は華やかでした。
ヴァン・ダインは推理小説の理想形として称え、批評家アレグザンダー・ウールコットは「史上最高のミステリ三作の一つ」と絶賛。日本でも江戸川乱歩が、黄金期ベスト10の第8位に本作を挙げています。
その一方で、レイモンド・チャンドラーは評論「簡単な殺人法」のなかで、事件を知的な遊戯として扱う英国本格の姿勢を槍玉に挙げ、その代表格として本作の名を引きました。称賛と批判、その両極のはざまに立っている——この事実こそ、本作が英国黄金期本格のひとつの原型であったことの証しでもあります。
理想として持ち上げられ、また乗り越えるべき標的とされたという両方の来歴を負っているからこそ、本作はこのジャンルの歴史を語るうえで避けて通れない位置にあります。どちらの側から読むにせよ、まず一度は通っておきたい一冊です。
では、どんな読者に向くのでしょうか。大仕掛けなトリックよりも、探偵と相棒が言葉を交わしながら少しずつ真相へ近づいていく、その過程の優雅さを味わいたい人にはうってつけです。
謎解きの骨格はオーソドックスで、現代の目には仕掛けの輪郭が早めに見えてくるかもしれません。けれども本作が差し出すのは、意表を突く結末そのものより、推理という遊戯の端正な佇まいです。
血なまぐささや強い刺激を求める向きには物足りないこともあるでしょうが、紳士的な知的会話をゆっくり楽しみたい夜には、これ以上ない相手になってくれます。ページを繰る速さより、探偵たちのやりとりに寄り添う静かな時間を大切にできる読者ほど、この館の居心地のよさが身に沁みるはずです。
手に取るなら
いま手に取るなら、創元推理文庫の新訳決定版(山田順子訳)が読みやすくおすすめです。山田順子は、アーモンド『肩胛骨は翼のなごり』やキング『スタンド・バイ・ミー』などの訳で知られる翻訳家。
巻末には加納朋子による解説と、新保博久の特別寄稿「金田一耕助と江戸川乱歩」が添えられ、本作が日本のミステリに落とした影までをたどれる作りになっています。プーの作者がこれほど端正な本格を書いていたのか——その素朴な驚きと、英国カントリーハウス本格の原型に触れる楽しさを、静かに約束してくれる古典です。